こんにちは、ユウキです。
前回の記事では、僕が幼少期に暮らしていた築古3DKのアパートの話をしました。
今回は、その頃の家庭環境と「放置子」だった自分についてお話しします。
母が家に帰らない日々が続いた
当時3歳の僕と2歳の妹、そして母と母方の祖父母の家で5人暮らしをしていました。
ところが、母は家に帰る頻度がだんだん減っていったんです。最初は1日おき、3日おき、やがて1週間おき…。
23歳、歳の僕たちにとって、ママがいないのは本当に寂しいことでした。
泣きじゃくりながら母の帰りを待った記憶は、今でも鮮明に残っています。
“放置子”として近所をさまよう毎日
母が帰らない日が増え、僕と妹は祖父母と暮らすようになりました。
でも、僕は5歳になってもまだ保育園や幼稚園に通っていません。
周囲の子たちが園に通っている日中、僕らは公園で遊ぶか、近所の小さな子を連れたお母さんに遊んでもらうしかありませんでした。
今でいう「放置子」そのもの。
幼稚園帰りの友達の家に行って遊んでもらい、暗くなるとその家のママに「もう帰ったほうがいいんじゃない?」と言われる…。
今振り返ると、本当に迷惑をかけていたと思います。
民生委員さんが動いてくれて、保育園に入園できた
そんな僕らを気にかけてくれていたのが、アパート向かいに住んでいた民生委員さんでした。
祖父母に直接声をかけ、なんとか保育園に入れるように手を尽くしてくれたんです。
母は相変わらず家に帰らないし、育児にはほぼノータッチ。祖父母も高齢で頼れる大人は誰もいない。
そんな状況だったからこそ、民生委員さんの存在は本当にありがたかった。
そして、5歳の7月、やっと保育園に入園できました。卒園まで残り半年というタイミングです。
祖父母と暮らす日々の当たり前
祖父は字がほとんど書けず、ばあちゃんは耳が不自由でした。
左耳は完全に聞こえず、右耳もわずかな聴力しかありません。
今思えば、祖父は昭和初期の生まれで戦争時代に生まれた人で勉強!学習!という時代ではなかったし、そもそも発達障害の特性もあったのかもしれません。祖母も聴覚障害を抱えて大変だったと思います。
でも、当時の僕はそんなこと全く知らず、祖父母の家での暮らしが当たり前でした。
当時を振り返って思うこと
民生委員さんが介入してくれたのは、きっと「このままでは危ない」と思われていたからだと思います。
今の時代に当てはめると少し異常に思えるけれど、当時の僕にはそれが普通の毎日でした。
ただ、あのとき助けてくれた民生委員さんには、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
あの方が動いてくれなかったら、僕はどうなっていたんだろう──そう考えることがあります。
次回予告:小学校で気づいた“貧困家庭”という現実
保育園に通えるようになったのも束の間、小学校に上がると僕はすぐに気づくことになります。
「うちの家、他の家とは違うんだ」と──。
次回は、小学校時代に感じた“貧困家庭”としての違和感や現実についてお話しします。
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